ドラちゃんのおへや

帰ってきたガチャ子

 「ガチャ子、君がいなくなったら部屋ががらあんとしちゃった。でも、すぐになれると思う。だから…心配するなよ、ガチャ子」

 あなたはガチャ子を知っているか?
 あなたはガチャ子を覚えているか?
 「ガース!」の声がしたとき、振り向けば彼女(?)はそこにいる。

 ぱっちりとした大きな瞳に、でかいでかい口。
 彼女を一度見れば、その姿が脳裏に焼き付けられるだろう。

 『ドラえもん』連載開始から4ヵ月、彗星のごとく現れた新たなキャラクター、ガチャ子。彼女は、主人公・ドラえもんのライバルとして大活躍するはずだった。
 しかし、彼女はある日突然姿を消した。何の前触れもなく。

 彼女はどこへ行ってしまっただろう。もはやドラは敵ではないと悟り、自ら22世紀へと去ったのか。それとも、そのあまりに奔放な性格に恐れを無し、ドラやのび太が未来へ帰るようにと懇願したのか。

 理由はどうあれ、彼女はいなくなってしまった。そして、何事もなかったかのように、その後もドラとのび太の生活は続いた。

 これでいいのだろうか。いや、よくはない。わずか半年の間とは言え、ドラとのび太を翻弄して『ドラえもん』世界を引っかき回した彼女は、忘れがたい強い印象がある。

 いつの日か、彼女は帰ってくる。そう信じて、その日に備えて彼女のことをより深く理解しておきたい。そんな気持ちから生まれたのが、この「帰ってきたガチャ子」だ。
 それでは、これからガチャ子の真の姿に迫っていきたい。


● CHAPTER.1 ●

そもそもガチャ子とは何者か

 「ガチャ子」と言う名を聞いても、ほとんどの人の反応は「誰それ?」だろう。彼女はマイナーな存在だ。何しろ、登場期間がわずか半年だった上に、連載5ヵ目という最初期の登場だったので『ドラえもん』と言う作品自体の知名度も低かったからだ。
 仮に、ガチャ子について知っている人がいたとしても、その知識は「ドラえもんのライバルロボットだったらしい」程度だろう。ガチャ子の登場するエピソードがことごとく単行本未収録であり、それらを読む事の出来る機会が非常に限られているのだから、ガチャ子を知る人がわずかであっても仕方がない。
 私は、最近その「幻のガチャ子登場エピソード」全5話を読んだが、それでもやはり何者なのかはよくわからなかった。主役であるドラえもんにしても、その設定は長い期間をかけて少しずつ作られており、連載初期にはまだ性格は固まっていなかった。まして、ガチャ子は半年間しか登場していない。しっかりした説明が本編でなされているわけがないのだ。
 しかし、それでもガチャ子登場エピソードを何度も読み返すことで、おぼろげながらガチャ子のことがわかってきた。それを、以下でまとめてみた。

-何型ロボットなのか-

 これは、はっきり言って登場する話を全て読んでもわからない。「小学二年生」版ではセワシがガチャ子を連れてくるが、彼も「これもロボットだよ」と言うのみで、素性には一切触れていない。「小学一年生」版に至っては、机に向かっているのび太とドラの後ろからいきなり「ぎゃはははは」と笑って登場している(つまり、タイムマシンから出てきたのではない。どこから来たんだろう)。ドラも「あっ、がちゃこ。なにしにきたの」と言うだけで、特に彼女の存在自体には驚いていない。
 つまり「小学二年生」読者にとっては、ガチャ子はロボットだという情報しかなく、「小学一年生」の読者に至っては、鳥の格好をした謎の生き物としか判断できなかったはずだ。
 そして、何の説明もないままガチャ子は姿を消してしまったのだが、長い時間を経て、意外なところで彼女の正体が明らかになった。それは、てんとう虫コミックスアニメ版『映画 2112年ドラえもん誕生』巻末の藤子・F・不二雄先生(以下「F先生」)の言葉だ。『ドラえもん』の色々な設定変更に関する話題の中で「ガチャコというあひる型ロボットを出したことがあります」という記述があるのだ。登場してから25年たって、ようやく作者によってガチャ子の正体が明らかにされたのだった。

-謎の鳴き声-

 彼女は、時々鳴き声と思われる奇声を発する。それが「ガース」だ。ドラえもんはネコ型ロボットだが別に鳴きはしない。それに対して、ガチャ子は思いっきり動物丸出しである。こんな声を出していては、変な生き物扱いされても仕方がないような気がする。

-意外に的確な判断力-

 「ロボットのガチャ子」での出来事。ガチャ子は、のび太が雨男だと言われないようにするために、水を吸い寄せる「まほうのわ」を出した。それに対してドラは「(みんなと遠足に行くくらいなら)アメリカへ行こう」などと言い出すのだから、ガチャ子の方がよっぽどまともだ。ただし、のび太にちゃんと説明せずに先走ってしまうあたりは問題だが。

-作品世界では最強か?-

 ガチャ子は、首にひもを付けて大昔から恐竜を連れてきた実績を持つ。その後、恐竜は現代で暴れ出すのだが、それはガチャ子がいなくなったあとだ。この事実から考えると、どうやらガチャ子は恐竜を手なづける事が出来たらしい。
 ガチャ子がいなくなると恐竜は暴れ出したのだから、彼女が「桃太郎印のきびだんご」を使ったというわけでもなさそうだ。と、なると力で恐竜を屈服させたのだろう。実はすごい力を秘めているのかもしれない。おそらく、1万馬力のドラミ以上だろう。

-気まぐれ-

 完全に野比家に居着いているドラえもんに対して、ガチャ子は機嫌を悪くして未来へ帰ってしまったり、話の途中で机の引き出しから現れるなど、普段ずっと野比家で生活しているわけでは無さそうだ。  おそらく彼女は、気が向いたときにだけ20世紀に遊びにやってきて、ドラやのび太を構っていたのだろう。それならば突然姿を消したのも、20世紀に飽きてやってこなくなっただけと考えると辻褄は合う。


● CHAPTER.2 ●

ガチャ子登場

 では、そんな気まぐれなガチャ子は『ドラえもん』においてどのような活躍をしたのか。彼女の登場した全5話を下で紹介する。あらすじは最小限の内容にとどめてあるので、どうしてもどんな話か詳しく知りたいという場合は、各話のサブタイトルをクリックすると詳細なあらすじに飛べる。


● CHAPTER.3 ●

そしてその頃のドラえもんは

 前述のように、そもそもガチャ子はドラえもんのライバルとして登場したキャラクターだ。それでは、ガチャ子のむちゃくちゃな振る舞いに対し、ドラはどのように対抗したのか。
 中期作品以降の「常識人」なドラえもんであれば、ガチャ子をまともな手段で止めようとしただろうが、ガチャ子の登場する頃の初期ドラえもんは分別など無く、はっきり言ってやっていることはガチャ子と同レベルか、時にはガチャ子以下のこともあるくらいだ。結局のところ、こんなやつらが二人いてものび太は迷惑するだけであり、事実「小学一年生」版ガチャ子登場編は、のび太の迷惑を描いた話になっている。
 ここでは、そんなドラのガチャ子に対する行動をまとめた。割とまともなものもあるが、そのほとんどは非常識であり、当時のドラの知的レベルがよくわかる。

-ガチャ子より弱い?-

 どうもドラえもんはガチャ子に対して押しが弱く、彼女を苦手としているようだ。ガチャ子が「クルパーでんぱ」を発して町中の人をクルクルパーにした時も直前に二人で言い争いをしており、ドラは一応彼女を止めようとはしたものの、結局ガチャ子が押し切ったらしく、でんぱは広がってしまった。また、「まほうのかがみ」でガチャ子が車を運転しようとした時も、ドラは説得してやめさせようとはしておらず、ドラ達のコピーを作ってごまかす消極的な解決策を採った。
 さらに、ガチャ子が起こした事件を解決する力がドラにあるのかどうかもはっきりしない。これは、初期作品では明確なオチがなく収拾がつかないまま終わる事が多いからなのだが、それに加えて当時のドラの知的レベルがガチャ子と変わらないせいもあるのだろう。ガチャ子にしても後先を考えて行動しているとは思えないので、同じレベルのドラが彼女の起こした騒動を止めることができなくても当然だ。

-ドラも非常識-

 今、ガチャ子の行動を見ると、めちゃくちゃに話をひっかきまわしていると言う印象を受けるが、当時メチャクチャだったのはガチャ子だけではない。一部では有名なことだが、初期作品ではドラえもんだって立派にめちゃくちゃなことをやっていたのだ。
 ガチャ子が登場しない話でも、「まんが家」(「藤子・F・不二雄大全集」第1巻)では無理矢理のび太を漫画家にさせようとするし、「おいかけテレビ」(「藤子不二雄ランド」第1巻)では電器屋へ行ってのび太をテレビに出せと言う。さらに「ペタリぐつとペタリ手ぶくろ」(「藤子・F・不二雄大全集」第2巻)では「にんじゃ」と「だいじゃ」、「あやしい」と「くやしい」を間違えるなど、日本語能力すら怪しい。
 そして、ガチャ子はこのような「非常識な主人公」ドラえもんと渡り合うライバルとして作り出されたため、同様に非常識なキャラになったのだろう。

-結局ガチャ子と同レベル-

 前述の「小学一年生」版ガチャ子登場編では、二人がのび太の役に立とうとして行う事が、すべてのび太にとっては迷惑なのだが、ドラえもんはそんなのび太の気持ちは全く意に介せず、「ぼくたちってしんせつだな」とまで言っている。
 この「ぼくたち」に注目したい。つまり、ドラは自分の行動が非常識だと気づいていないばかりか。ガチャ子のやった事ものび太の役に立ったと思ったのだ。当時のドラがガチャ子と同レベルであることをよく表したセリフだと言える。
 もし、このような話が続けば、のび太は「二人とも要らない。さっさと未来へ帰れ」と思っただろうし、F先生も『ドラえもん』ではそのような路線は合わないと思ったからこそ、ガチャ子を外したのだろう(この事については詳しく後述する)。


● CHAPTER.4 ●

さようなら、ガチャ子

 「小学二年生」ではガチャ子は一回限りの登場であり、レギュラーキャラクターとして扱われていたのは「小学一年生」のみだった。そこで、「小学一年生」でガチャ子がドラえもん達の前から姿を消すまでの経過をたどり、さらにガチャ子退場後の『ドラえもん』の作品の質的変化を追ってみた。

Part.1 予兆 〜3カ月のブランク〜

 ガチャ子は1970年5月号で初登場してから7月号まで3回連続登場しており、いずれも話の中で重要な役割を持っていた。しかし、8月号から10月号までの3ヶ月間、不思議なことにガチャ子はばったりと消息を絶つ。これはどういう事だろうか。まず、このガチャ子不在の3話について考えてみる。
 8月号「いぬになりたい」は、動物に変身できる「どうぶつがす」をのび太が使ったことによって起こる騒動を描いた話であり、どちらかと言うと後の道具中心のエピソードに近い印象を受ける。このような内容では、一つの道具で話を引っ張ることが出来るため、話にガチャ子が絡む余地が無くなってしまったのだろう。
 9月号「ウルトラワン」でもガチャ子は姿を見せない。これは「テレビにかぶせると中の物が出てくるドア」を使ったためにテレビのヒーロー「ウルトラワン」が現れ、野比家の庭で怪獣と闘うと言う話で、前月の「いぬになりたい」と比べると初期のドタバタ色が強い。ガチャ子が絡んでもおかしくない(たとえば、ガチャ子にドアを乱用させるなど)のだが、無視されてしまっている。その理由は不明である。
 さらに、続く10月号は「ゆめ」。しずちゃんの夢の中で暴れる怪物をつかまえて、スネ夫の夢に押し込むという初期ならではのドタバタ色の強い作品である。これも、ガチャ子が登場してもおかしくない話であり、この時点で既にF先生はガチャ子の必要性に疑問を感じていたのではないだろうか。
 元々『ドラえもん』は「昔、よくあった「○○博士の珍発明」といった、現実離れしたさまざまな発明品で、子どもたちの空想をかき立てるスタイルの作品をかいてみたいと思って」描かれた作品である(小学館・ビッグコロタン「藤子まんがヒーロー全員集合」中の「ドラえもん キャラクターづくりの秘密」より)ので、話をひっかきまわすだけのガチャ子が不要になってしまったのは当然の流れだと言える。

Part.2 帰還 〜最後のチャンス〜

 しかしガチャ子はもう一度だけ姿を見せた。それは、読者にとっては久しぶりの登場であり、F先生にとっては最後の実験だったのではないだろうか。それが、11月号「クルパーでんぱのまき」である。
 タイトルからして危ないこの話は、ガチャ子の出したクルパーでんぱで町中の人がクルクルパー(この言葉は作中には出てこないが、みんな鼻を垂らして目の焦点も定まっていないほどだ)になってしまうと言う内容。
 一見むちゃくちゃな話だが、これは「道具中心の話作り」と「ガチャ子の存在を活かす展開」と言う二つの要素を両立させようとした結果だったのではないだろうか。つまり「ガチャ子の出した道具のせい」で「むちゃくちゃなドタバタ的状況が生まれる」と言う流れである。これならガチャ子のキャラを活かして、なおかつ道具にもスポットを当てることが出来る。
 しかし、この話の幕切れは、周囲の人のクルクルパーぶりに困り果てたのび太がドラえもんに「はやくなおして」と頼むだけでオチはなく、話としてまとまっているとは言い難い。後に描かれた「人間うつしはおそろしい」「ビョードーばくだん」などの同系統の話と比べれば、完成度の低さは明らかである。結局、ガチャ子の存在を活かしつつ道具で話を引っ張ることは出来なかったわけで、この結果でガチャ子は見切りを付けられてしまったのだろう。

Part.3 退場 〜そして「新オバQ」へ〜

 そして、何の説明もないまま12月号以降ガチャ子は姿を消し、それっきり『ドラえもん』には登場しなかった。読者は、以前の3カ月のブランクの時のように、またそのうち登場すると思っていたかも知れないが、ガチャ子が帰ってくることはなかった。最後に、ガチャ子がいなくなったあとの「小学一年生」版『ドラえもん』が、どのような変化をたどったのかを追ってみる。
 まずは「クルパーでんぱ」の翌月に描かれた12月号「かべぬけき」。これは、ドラが初めて使う道具「かべぬけき」を使って、色々いたずらをしまくる話。初期作品とは言え、「かべぬけき」を面白がっていたずらをし放題のドラえもんを見ているとさすがに違和感があり、むしろこの役はガチャ子にやらせた方がふさわしかったように思えてくる。それでもあえてドラえもん一人に話をまかせたのは、ガチャ子に見切りを付け、もう使わないと言うF先生の決意の現れだったのではないだろうか。
 そして、翌1971年新年号は「かべ紙の中で新年会」(TC9巻)。「小学一年生」版では初めてのてんコミ収録作品だ。内容はよく知られているので説明は省くが、ドラえもんの道具「かべ紙ハウス」シリーズを活かした内容で、ガチャ子降板後第2作にしてようやく後に続く『ドラえもん』の方向性が見えてきたと言えよう。
 その後も2月号「虫めがね」、3月号「まほうのとけい」(両方とも単行本未収録)と道具中心の話が続き、4月号で「小学一年生」版『ドラえもん』は大きな変化を迎える。それまでは毎回8ページだったのが、突如3ページに減ったのだ。当然ながら話はシンプルになり、より道具のアイデアに重きを置いた内容となった。
 これは、4月号より同誌で『(新)オバケのQ太郎』が始まったためと思われる。限られた誌面で2作に同じだけのページを割くことも、F先生が倍の量の仕事をこなすことも、どちらも不可能だったのだろう。
 また、両作品を比較すると、二作品を描き分けることによって、よい意味での差別化がなされたと思う。『(新)オバQ』は、ガチャ子の降板で『ドラえもん』が捨てた「キャラの行動で話を引っ張る」タイプの作品だ。Q太郎たち個性あふれるオバケは一人一人が話を引っ張るのに十分なパワーを持っており、ガチャ子で試した手法が存分に活かされたのだろう。そのため『(新)オバQ』は旧『オバQ』とはひと味違う作品になっている。
 そう考えると、ガチャ子はただ消えたわけではなく、彼女のいた半年間の『ドラえもん』は無駄ではなかったのだ。そう考えたい。


● CHAPTER.5 ●

帰ってきたガチャ子

 というわけで、自分なりに「ガチャ子」と言うキャラクターについて、色々と分析してみた。しかし、コーナータイトルに反して未だにガチャ子は帰ってこない。古ぼけた学習雑誌の中に埋もれたままである。
 ガチャ子は、作者自身の意志で無かったことにされたキャラだから、帰ってこさせようとすること自体が無茶なのかも知れない。しかし、私はあえて「ガチャ子」を今再び世に問うてほしいと思っている。それは、ガチャ子も間違いなく『ドラえもん』世界の住民の一人であり、『ドラえもん』という作品を語る上では欠かせない存在だと考えるからだ。
 しかし、残念な事に我々は「ウソ800」を持っていない。自分の手でガチャ子を帰ってこさせることは出来ないのだ。しかし、それでもいつかはガチャ子に再び会うことが出来る日が来ると信じて、このコーナーを終わる。



 と、本来このコーナーは、本当にここで終わっていたのだが、2009年の『藤子・F・不二雄大全集』刊行開始によって、状況は一変した。この全集は「『ドラえもん』全話完全収録」を売り文句の一つとしており、「学年繰り上がり方式」の収録によって、リアルタイム小学生読者にとっての連載順で『ドラえもん』の全ての話が単行本化されることとなった。
 今までの単行本では一切無視されてきたガチャ子登場の5話も同様であり、「小学二年生」掲載の「ロボットのガチャ子」が第2巻に、「小学一年生」掲載の残り4話が第3巻に収録された。まさか無いだろうと思っていた「ガチャ子の帰還」が実現してしまったのだ。今後、ガチャ子について知りたい人は当コーナーを読むよりも、藤子・F・不二雄大全集の『ドラえもん』第2・3巻を読んだ方が早いだろう。
 そんなわけで、念のためにここに書いておくが、CHAPTER.4以前の文章は全て藤子・F・不二雄大全集が刊行されるよりもずっと以前に書いたものであり、当時はガチャ子の話が単行本化されるなどとは夢にも思っていなかった事をご承知おきいただきたい。
 なお、藤子・F・不二雄大全集では、ガチャ子登場の5話はおおむね初出通りに収録されているが、「クルパーでんぱのまき」は「おかしなでんぱ」と題が変更されて、作中のセリフも一部が変えられた。「クルパー」の語感が独特の味を出していたエピソードなだけに、これは残念な措置だ。とは言え、誰でも手軽にガチャ子と会えるようになった事は喜ばしい。



 と、言うわけで最後には…

 「うれしくない。これからまた、ずうっとガチャ子といっしょにくらさない。」

─「帰ってきたガチャ子」END